福井県史 年表

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西暦 和暦 事  項
1481 文明13 5 16 朝倉氏景,丹生郡織田寺玉蔵坊を祈願所とする〔(5)劒神社-10〕.
1481 文明13 5 28 武田国信,子息信親と大内政弘の対立の和解を幕府に請う〔古文書〕.
1481 文明13 7 26 朝倉孝景が死去する(54歳)〔親元日記,後法興院記ほか〕.
1481 文明13 8 17 朝倉勢,坂井郡粟田島の甲斐勢を破る〔当国御陳之次第〕.
1481 文明13 9 15 越前で朝倉氏景と斯波義良・甲斐八郎らが戦い,斯波・甲斐勢が敗れて加賀に退く〔雑事記〕.
1481 文明13 10
朝倉氏,美濃国守護代の斎藤妙純(利国)の調停により斯波義廉息を越前に迎え入れる〔雑事記〕.
1481 文明13 11 11 朝倉氏景の代替りを祝して儀式酒宴が開かれる〔(3)諏訪公一-1〕.
1481 文明13 11 22 朝倉氏景,将軍に代始の礼〔親元日記〕.
1481 文明13 11
近衛家諸大夫大江俊宣,蘇東坡の講釈のため越前に下る〔後法興院記〕.
1481 文明13

この年若狭守護武田国信が京都で犬追物を4回催す〔親元日記〕.
1482 文明14 (7) 3 失火により一乗谷に大火あり,朝倉館・城は無事〔雑事記〕.
1483 文明15 3 19 斯波義良,越前より尾張へ移る〔親元日記〕.
1483 文明15 4 18 若狭の曲舞が内裏で舞を上演する〔御湯殿上日記〕.
1483 文明15 4 30 朝倉氏景と甲斐八郎が和睦し,越前国守護代は氏景とし,斯波義兼を主人としたと伝えられる〔雑事記〕.
1483 文明15 5 16 京都武田邸馬場で犬追物が行われる〔親元日記〕.
1483 文明15 5 28 逸見国清,醍醐妙法院の借銭に関して,亡父宗見に対する同寺の契約状により本利の弁済を求める訴訟をおこす〔政所賦銘引付〕.
1483 文明15 6 27 逸見国清,足利義政が東山山荘に移ったときに,武田宗勲の雑掌として進物を届ける〔親元日記〕.
1483 文明15 8 2 小畑友康,大飯郡青郷小和田・難波江村の代官職を抵当にした幕府奉公衆大草公友の借銭の返済を求め,幕府に訴える〔政所賦銘引付〕.
1483 文明15

この年遠敷郡栖雲寺が,武田元信の子である京都建仁寺の潤甫周玉を開山に迎え,建仁寺系の寺院となる〔若狭郡県志〕.
1484 文明16 6 11 大飯郡飯盛寺,火災により失った空海御影を金剛峰寺南院より与えられる〔(9)飯盛寺-1〕.
1484 文明16 7 12 朝倉孝景の四男孫五郎景総,相撲に事寄せて弟の教景(法名以千宗勝)を殺す〔雑事記〕.
1484 文明16 8 15 三方郡山西郷番頭包松,買得した山・名田地および貸付米を百姓が押妨していることを幕府に訴える〔政所賦銘引付〕.
1484 文明16 11 7 甲斐勢,加賀一揆の支援をうけて坂井郡に侵入し,関嶋田・河和田で合戦〔雑事記,当国御陳之次第〕.
1484 文明16

この年丹後守護一色義直,幕府より小浜支配を認められる〔長興宿祢記,後法興院記〕.
1485 文明17 3 5 三方郡上瀬宮の来年度田楽頭3人を差定した頭文が,この年から以後1747年まで連年伝わる〔(8)宇波西神社-18〕.
1485 文明17 3 16 前関白二条持通,若狭に下り,ついで越前に赴く〔雑事記〕.
1485 文明17 5 12 坂井郡細呂宜下方百姓の訴えにより興福寺が代官堀江民部を罷免し,朝倉光玖を任命する〔雑事記〕.
1485 文明17 5 27 三方郡耳西郷の領主臨川寺が年貢無沙汰を訴えたので,相国寺蔭凉軒が武田国信に書を送る〔蔭凉軒日録〕.
1485 文明17 8 22 武田信親が死去する〔親元日記〕.
1486 文明18 4 4 幕府,若狭本郷の地を本郷政泰に返付する〔(2)本郷-106〕.
1486 文明18 4 25 内裏料所吉田郡河合荘の年貢の催促のため,中御門宣胤が朝倉氏景のもとに赴く.その後氏景,厳重に沙汰するとの請文を提出〔実隆公記,親長卿記,宣胤卿記〕.
1486 文明18 5 20 朝倉氏景,能登から上洛途中の歌僧正広を一乗谷に迎えて歌会を催す〔松下集〕.
1486 文明18 6
聖護院准后道興,若狭の小浜・三方・浦見坂・機織池,ついで越前の敦賀・白鬼女・高木の里などを通り,加賀に入る〔廻国雑記〕.
1486 文明18 7 4 朝倉氏景が死去する(38歳)〔雑事記〕.
1486 文明18 8 28 後土後門天皇,禁裏料所小浜の支配について一色義直を止め,若狭守護武田国信に命じたため,義直が丹後に下国する〔長興宿祢記,後法興院記〕.
1486 文明18 9 16 朝倉氏景死去の弔慰のため,連歌師宗祇が一乗谷へ下向〔実隆公記〕.
1486 文明18 9 28 武田国信,家臣寺井賢仲を介し若狭の仁和寺真光院領の半済を返還する〔十輪院内府記〕.
1487 長享1 1 14 三国湊の興福寺供料40貫文を,朝倉光玖と堀江南郷方が半分宛請負う〔雑事記〕.
1487 長享1 6 23 遠敷郡三宅荘長久寺,領主の通玄寺が寺領に半済を実施しようとすることを訴える〔蔭凉軒日録〕.
1487 長享1 9 11 越前に甲斐氏が打ち入るとの風評あり〔雑事記〕.
1487 長享1 9 12 将軍足利義尚,近江の六角氏を討つため,近臣や公家を率いて近江坂本に着陣〔長興宿祢記〕.
1487 長享1 10 19 朝倉景冬,近江の将軍義尚のもとに参陣〔蔭凉軒日録〕.
1487 長享1 10 22 朝倉貞景の越前支配について,尾張守護斯波義寛が近江の将軍義尚に訴え,貞景の進退が問題となる〔雑事記〕.
1487 長享1 12 2 朝倉貞景進退問題について,細川政元より斯波義寛に,貞景を将軍直属の奉公衆とし,貞景より義寛へ名代を出すなどの裁定案が示される〔朝倉家記所収文書〕.
1487 長享1 12 11 朝倉貞景進退問題の裁定案を拒否する斯波義寛方の反論を,織田敏定が提出〔朝倉家記所収文書〕.
1487 長享1 12 11 武田氏家臣寺井賢仲の京都西大路辺(京都上京)私宅から出火し,大火となる〔後法興院記,蔭凉軒日録〕.
1487 長享1 12 24 朝倉貞景,近江の朝倉景冬に対し,朝倉氏は奉公人であることを主張せよと指示〔朝倉家記所収文書〕.
1487 長享1 12 29 朝倉貞景の地位につき,斯波氏との関係は決着していないが,奉公人たることが定まり,国内の寺社本所領を返進することになったとされる〔雑事記〕.
1488 長享2 2 23 朝倉景冬,3000人の人数で仙洞旧跡の松を東山山荘に運ぶ〔蔭凉軒日録,北野社家引付〕.
1488 長享2 5 26 加賀一向一揆が蜂起し守護富樫政親を攻撃する.朝倉氏,富樫方への合力のため出陣〔蔭凉軒日録ほか〕.
1488 長享2 6 22 加賀守護富樫政親が自殺.
1488 長享2 7 4 蓮如,加賀吉藤専光寺など3か寺に,一揆への参加を叱責する消息を発する(文明7年説もある)〔専光寺文書〕.
1488 長享2 7 25 元興寺極楽坊で,8月4日まで幸若大夫の勧進曲舞が行われる〔雑事記〕.
1488 長享2 8 28 天台念仏の真盛,朝倉貞景に招かれ南条郡府中より一乗谷に移り,安養寺で説法.貞景,真盛の教化により秘蔵の鷹・鴬を放ち,浅津橋の関役船賃を停止〔真盛上人往生伝記〕.
1488 長享2 9
宗祇が越前から京都に帰る〔実隆公記〕.
1489 延徳1 3 8 越前の野本慶菊丸(8才)筆の「一実円頓妙文」に,三条西実隆が跋文を書き激賞する〔実隆公記〕.
1489 延徳1 3 26 将軍足利義煕(義尚)が近江鉤の陣中に没する〔蔭凉軒日録ほか〕.
1489 延徳1 4 10 三方郡の世久見枕網中,えびす魚・えびす銭の10分の1の上納を約束〔(8)渡辺市左衛門-6〕.
1489 延徳1 6 4 一乗谷の上田氏,大野郡の合戦の戦死者のために吉田郡岡に西光寺を建て,真盛を招いて追善供養を行う〔真盛上人往生伝記〕.
1489 延徳1 10 9 越前幸若大夫が内裏で幸若舞を上演〔御湯殿上日記〕.
1489 延徳1 11 12 越前善応寺が諸山に列せられる〔蔭凉軒日録〕.
1490 延徳2 6 3 武田氏家臣の寺井賢仲,小浜西光寺の寺敷地を買い取り,西福寺に寄進〔(9)西福寺-1〕.
1490 延徳2 6 12 歌人の正広が一乗谷に下着する〔松下集〕.
1490 延徳2 6 21 武田国信が死去する〔蔭凉軒日録〕.
1490 延徳2 8 1 越前の女曲舞が禁裏で演舞〔後法興院記〕.
1490 延徳2 8 7 府中奉行人,南条郡河野・今泉両浦と山内馬借の荷物配分をめぐる相論につき,寛正6年の小守護代奉書の規定に従うべきことを命じる〔(6)宮川源右ヱ門-2〕.
1490 延徳2 12 13 春日社,同社領三方郡耳西郷・日向・早瀬浦において,代官檀那寺俊重が応仁の乱以来年貢を無沙汰していることなどを訴える〔雑事記〕.
1490 延徳2 12 29 幕府,近江三井寺(園城寺)の仏地院が守護方の許可を得たとして三方郡耳西郷代官職を知行することを停止〔雑事記〕.
1490 延徳2

この年大野郡蓮光寺が,文明7年7月23日の大野郡井野部郷の合戦で滅亡した二宮左近将監兄弟および軍兵の亡魂を弔うため,大野郡司朝倉光玖の懇請により二宮氏館跡に創建される〔真盛上人往生伝記〕.
1491 延徳3 3 6 細川政元に従い越後に赴く冷泉為広が敦賀郡善妙寺に着く.ついで7日に府中,8日に北庄の朝倉土佐館に着き,朝倉貞景より饗応される.9日に金津の理知院に着く〔為広卿越後下向日記〕.
1491 延徳3 3 12 細川政元が越前府中から京都へ帰るとの風説が流れる〔蔭凉軒日録〕.
1491 延徳3 4 20 武田元信,飛鳥井雅俊の蹴鞠会に参加〔親長卿記〕.
1491 延徳3 4 21 将軍義材(義稙),六角高頼を討つため諸将に近江出陣を命じる〔後法興院記〕.
1491 延徳3 4 22 越後より帰洛途中の冷泉為広が一乗谷に着き,貞景のもてなしを受けこの日より2泊する〔為広卿越後下向日記〕.
1491 延徳3 4 23 宗祇が越前に来月赴くため,三条西実隆に人丸影(柿本人麻呂像)を預ける〔実隆公記〕.
1491 延徳3 4 25 冷泉為広,帰路に越前の西街道を通り今泉浦に達し,舟で敦賀へ渡る〔為広卿越後下向日記〕.
1491 延徳3 5 3 朝倉貞景進退問題が再び浮上し,斯波義寛方の織田敏定が浦上則宗の提示した妥協案を拒否〔朝倉家記所収文書〕.
1491 延徳3 5 4 美濃斎藤妙椿の13歳の娘が朝倉貞景のもとに入る〔雑事記〕.
1491 延徳3 5 28 大飯郡大成寺心月,相国寺蔭凉軒に書状や贈答品を送る〔蔭凉軒日録〕.
1491 延徳3 7 1 朝倉光玖,坂井郡竜沢寺四至内の禁制違反者の交名注進を深町出雲守・武曽左馬助・杉若宗右衛門に命じる〔(4)龍澤寺-27〜29〕.
1491 延徳3 9 3 若狭の九世舞,近江六角氏攻撃の陣中で演舞〔蔭凉軒日録〕.
1491 延徳3 10 12 将軍義材(義稙),朝倉貞景の退治を命じる御内書を斯波義寛に発する〔蔭凉軒日録〕.
1491 延徳3 10 18 管領細川政元の家臣上原氏,貞景はさしあたり斯波氏に服すべきことなどの5か条の裁定案を貞景に示す〔朝倉家記所収文書〕.
1491 延徳3 10 25 遠敷郡神宮寺,寺家百姓を召し使うとき,片道12里の所は50文,5〜6里の所は米1升を与えると定める〔(9)神宮寺-23〕.
1491 延徳3 12
南条郡帆山寺の殿堂が大雪のため倒壊〔(2)曼殊院-2〕.
1491 延徳3

この年印牧美次,一乗谷逗留中の尭憲から「古今和歌集」を贈られる〔園塵〕.
1492 明応1 2 21 朝倉貞景進退問題について,浦上・織田両氏が申し合わせて朝倉貞景を退け,斯波氏を守護として越前に入国させるとの風聞が流れる〔雑事記〕.
1492 明応1 8 14 熊野御師禅長房良有,大飯郡佐分利・本郷・青郷・高浜などの旦那職を花蔵院に永代売却する〔(2)熊野那智大社-12〕.
1492 明応1 8 16 遠敷郡甲崎南村彦三郎,塩浜1昇を売却する〔(9)妙楽寺-3〕.
1492 明応1 9 4 近江草津において武田勢に喧嘩があり,17人が死亡〔蔭凉軒日録〕.
1492 明応1 9 8 武田氏被官と青地氏が近江で争い,武田氏被官が死傷する〔後法興院記〕.
1492 明応1 12 4 朝倉光玖,大野郡富田荘田野村の年貢1000疋を執沙汰し,飯尾宗祇を通じて,三条西実隆に納入する〔実隆公記〕.
1492 明応1 12 13 三方郡世久見浦惣中,火災と飢えにより網・釜の入用や公事銭納入が困難となり,浦の畠を売却〔(8)渡辺市左衛門-7〕.
1492 明応1

この年小浜極楽寺が,真盛を開基として創建される〔若州管内社寺由緒記〕.
1493 明応2 3 16 平泉寺杉本坊栄祐法印,秘符と丸薬を携えて相国寺蔭凉軒を訪ねる〔蔭凉軒日録〕.
1493 明応2 (4) 28 将軍足利義材を廃して実権を握った細川政元の要請に応じ,朝倉光玖被官の杉若氏と久原氏が兵を率いて入京〔蔭凉軒日録〕.
1493 明応2 7
朝倉光玖,当主貞景の命令に任せ足羽郡三か荘十人衆商人に軽物座3か条の定書を与える〔(3)慶松勝三-1,浄光寺文書〕.
1494 明応3 1 5 朝倉光玖が死去する(去年死去ともいう)〔雑事記〕.
1494 明応3 6 25 遠敷郡明通寺,松永領主の要請により能木嶽で雨請(雨乞)を行う〔(9)明通寺-97〕.
1494 明応3 10 21 甲斐勢,大野郡や豊原寺へ侵攻し,朝倉勢と戦い加賀に退却〔雑事記,後慈眼院殿御記〕.
1494 明応3

この年三方郡気山の猿楽師大夫の左衛門三郎,武田氏・熊谷氏に訴え,彦三郎より楽頭を得る〔(8)江村伊平治-5〕.
1495 明応4 2 30 真盛が死去する〔雑事記〕.
1495 明応4 4
三方郡気山座猿楽楽頭職の気山彦三郎,一座の大夫の左衛門三郎による楽頭職競望の停止を訴える〔(8)江村伊平治-5〕.
1495 明応4 7 13 朝倉貞景,近江柳ケ瀬まで出陣〔当国御陳之次第〕.
1495 明応4 9 20 朝倉景冬が死去する〔雑事記〕.
1495 明応4 11 5 若狭の小猿楽が内裏に召される〔御湯殿上日記〕.
1495 明応4 12 24 朝倉貞景,永平寺の所領を安堵〔(4)永平寺-11〕.
1495 明応4

この年今立郡朽飯八幡神社所蔵の大般若経が,「越前国今北東郡服荘藤蔵山朽飯寺」で書写される〔同奥書〕.
1496 明応5 3 7 朝倉貞景,今立郡水落神明社鳥居の勧進を承諾し,水落代官小島重増に協力を命じる〔(5)瓜生守邦-12〕.
1496 明応5 5 27 朝倉勢,斎藤利国支援のため近江より美濃に入り,木田寺で戦う〔雑事記,当国御陳之次第〕.
1496 明応5 6 16 京都出雲路相国寺東門辺で武田氏被官と賀茂地下人が田堺について争い,武田方が数人討たれる〔拾芥記,実隆公記〕.
1496 明応5 6 18 武田被官人死傷事件の報復として,武田勢が京都相国寺東門前に数百人押寄せ,放火する〔実隆公記〕.
1496 明応5 8 16 気比社執当,敦賀郡手浦山を塩木山として伐採を禁止〔(8)秦実-18〕.
1497 明応6 11 6 丹生郡野田本郷の千秋民部少輔浄祐跡が,一色政煕に与えられる〔(2)冑山文庫-3〕.
1497 明応6 12
朝倉景亮,丹生郡剣社領の山林を村堂・道橋などのために所望することを禁止〔(5)劒神社-19〕.
1498 明応7 4 22 粟屋賢家,三方郡早瀬浦の小嶋網場をめぐる早瀬・久々子両浦間の相論を早瀬浦に理ありと裁許〔(8)上野山九十九-2〕.
1498 明応7 7 5 坂井郡河口荘の名主・百姓ら,豊原寺領との水論のための証文を求め興福寺大乗院へ出向く〔雑事記〕.
1498 明応7 9 2 前将軍足利義尹(義材),再起して越中から上洛を企て,この日足羽郡の一乗入江唐人の在所に入る〔雑事記〕.
1498 明応7

この年遠敷郡明通寺と神宮寺,小浜での千部経読誦において座次を争う〔(9)明通寺-104〕./大野郡小山荘において,応永年中に流失した御給教蜜嶋の田地が再開発される〔(7)寶慶寺-4〕.
1499 明応8 3 25 蓮如が死去する〔空善記〕.
1499 明応8 3 28 死去直前の蓮如より赦免された下間蓮崇が死去する〔空善記〕.
1499 明応8 7 4 足利義尹の上洛が国飢饉により延引されると噂される〔後法興院記〕.
1499 明応8 7 6 坂井郡河口荘民,朝倉氏の判決により水論に勝訴〔雑事記〕.
1499 明応8 7 20 越前の足利義尹が上洛のため国を発ち,翌21日敦賀に陣する〔雑事記,後法興院記〕.
1499 明応8

この年武田氏が初めて要脚段銭を賦課する〔(9)羽賀寺-27〕.
1500 明応9 8
遠敷郡神宮寺との千部経読誦の座次をめぐる相論について,明通寺寺僧が反論〔(9)明通寺-102〕.