福井県史 年表                                        


507- 701- 751- 801- 851- 901- 951- 1001- 1051- 1101- 1151- 1201- 1251- 1301- 1351-
1401- 1421- 1441- 1461- 1481- 1501- 1521- 1541- 1561- 1581- 1601- 1621- 1641- 1661- 1681-
1701- 1721- 1741- 1761- 1781- 1801- 1821- 1841- 1851- 1861- 1871- 1881- 1891- 1901- 1911-
1921-
1931- 1941- 1946- 1951- 1956- 1961- 1966- 1971- 1976- 1981- 1986- 1991-  【凡例】


西暦 和暦 事項
1541 天文10 1 21 三方郡御賀尾浦大音氏に,大網惣中が網操業については虚偽・不正のないことを誓約〔(8)大音正和-240〕.
1541 天文10 2 21 将軍義晴,朝倉孝景の病気を見舞う〔(2)越前へ書札案文-54〕.
1541 天文10 8
勅使を迎えて気比社遷宮が挙行される〔(2)越前へ書札案文-80〕.
1541 天文10 9 3 越前を出奔していた朝倉景高,本願寺証如の支援を得るため,本願寺の門徒となること,越前3郡を進上することなどの3か条を本願寺に提案〔天文日記〕.
1541 天文10 9 11 本願寺証如,朝倉景高の提案を拒否〔天文日記〕.
1542 天文11 2 8 武田氏,遠敷郡明通寺より頼子懸米5石・千石頼子米5石を徴収し,家臣坂上・久村に切米として給与〔(9)明通寺-125〜128〕.
1542 天文11 5 24 朝倉孝景,幕府殿中普請の料足として3万疋を進上する〔大館常興日記〕.
1542 天文11 6 6 儒学者清原宣賢,一乗谷の日蓮宗慶隆院において「日本書紀」を講じる〔日本書紀抄奥書〕.
1542 天文11 7 10 敦賀郡手浦の天文8年から10年分の御神祭肴納入が免除される〔(8)秦実-23〕.
1543 天文12 4 11 朝倉景高,西国に逃れるための通路確保を本願寺証如に依頼〔天文日記〕.
1543 天文12 4 26 清原枝賢,祖父宣賢の居住地一乗谷に下向し,新造の朝倉邸に孝景・義景父子を訪ねる〔天文十二年記〕.
1543 天文12 5 11 清原宣賢・枝賢,越前府中の興隆寺行光坊に滞在し,府中の祭礼を見物〔天文十二年記〕.
1543 天文12 5 13 清原枝賢,宣賢に替わり朝倉氏家臣に「論語」「六韜」の訓みを教える〔天文十二年記〕.
1543 天文12 8 4 敦賀河野屋舟惣中,南条郡河野浦へは荷を付けず,今泉浦に付けることを誓約〔(6)西野次郎兵衛-36〕.
1543 天文12 8 25 ポルトガル商船,種子島に漂着し鉄砲を伝える〔南浦文集〕.
1543 天文12 12 24 加賀牛首・風嵐の人々が大野郡平泉寺と結んで白山権現造営の杣木伐採権を主張したため,本願寺証如が権現社の破却を命じる〔天文日記〕.
1544 天文13 5 2 遠敷郡矢代浦と宇久浦が網場について相論〔(9)栗駒清左ヱ門-17〕.
1544 天文13 9 23 朝倉教景,土岐頼允・織田信秀の援軍として美濃稲葉城の斎藤利政を攻撃し,敗退する〔(2)古今消息集-5〕.
1544 天文13 12 7 武田信豊,遠敷郡正照院を祈願所とし,犯罪人の駆込み寺であることを保証〔(9)萬徳寺-5,中山寺-21〕.
1545 天文14 4 6 大飯郡本郷に還住した百姓が粟屋光若に諸役を負担するよう,武田氏が本郷信富に依頼する〔(2)本郷-158〕.
1545 天文14 8 29 吉田兼右,越前に赴き,朝倉孝景に神道を伝授する〔天文十四年日記〕.
1546 天文15 8 10 延暦寺西塔北谷正教房より借用の善光寺如来,若狭神宮寺に着く.9月に小浜・高浜・鳥羽・安賀里・三方を経て,越前一乗谷に移る〔神宮寺桜本坊日記〕.
1547 天文16 3 8 遠敷郡妙光寺,武田信豊より臨時課役免除や寄進・買得地の安堵を受ける〔(9)妙光寺-5〕.
1547 天文16 3 8 清原宣賢,興霊軒の主催により一乗谷において「孟子」を講じる〔孟子抄奥書〕.
1547 天文16 3 30 観世左衛門尉・保正源次郎・宮増弥左衛門が,気山五郎三郎に鼓・笛の伝書を授ける〔(8)江村伊平治-9,早大演劇博物館所蔵文書〕.
1547 天文16 4 17 山城山崎阿弥陀堂修理勧進のため,近江多賀の小猿楽が遠敷郡芝原で興行〔神宮寺桜本坊日記〕.
1547 天文16 4 22 近江多賀の小猿楽,遠敷郡能木の橋の勧進のため引き続き興行〔神宮寺桜本坊日記〕.
1547 天文16 (7) 20 丹生郡糸生郷雨谷における逃亡百姓の売却地をめぐる村人間の紛争に,朝倉教景が判決を加える〔(5)野村志津雄-4〕.
1547 天文16

この年一乗谷滞在中の儒者清原宣賢,安養寺で「大学章句」や「中庸」などを講じる(1548年まで)〔大学章句〕.
1548 天文17 2 24 武田信豊の長男の信統のもとに,将軍足利義輝の妹が嫁する.翌日信統は義統と改名〔若狭記〕.
1548 天文17 3 16 三方郡の猿楽気山座の大夫などが,耳荘二十八所社佐野分の太刀銭収納権を売却〔(8)江村伊平治-10〕.
1548 天文17 3 22 朝倉孝景が足羽郡波着寺参詣の途中で死去する〔朝倉始末記〕.
1548 天文17

この年秋,武田氏が内裏段銭を寺社に賦課する〔(9)羽賀寺-27〕.
1548 天文17 11 15 堀平国,朝倉氏への茶売口の権利を堀与三兵衛に売却〔(2)田中忠三郎-1・2〕.
1549 天文18 6 22 武田元信の子の栖雲寺潤甫周玉が死去する(46歳)〔神宮寺桜本坊日記〕.
1549 天文18 7 3 イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエル,鹿児島に来る〔イエズス会士日本通信〕.
1549 天文18 12 14 武田信豊,遠敷郡国富羽賀村姫宮祢宜の跡職田畠などを闕所として南部膳行に宛行い,祢宜跡に散在・沽却の地があれば聞出次第に知行すべきことを認める〔(9)羽賀寺-24〕.
1550 天文19 7 12 清原宣賢が一乗谷で死去する(76歳)〔公卿補任〕.
1550 天文19 7 24 朝倉氏,三国滝谷寺の田畠を盗み刈り,湊で渡辺与七郎を殺害した犯人の密告を勧める〔(4)滝谷寺-49〕.
1550 天文19 8 17 武田信豊,小浜本境寺の有力檀方の関戸豊前入道を通じて陸奥戸館馬を入手する〔(9)本境寺-7・8,穴太記〕.
1550 天文19 8 23 朝倉勢,敦賀郡疋壇国境まで出兵〔当国御陳之次第〕.
1550 天文19 10 3 武田氏,国中に売却・買得田畠(抜地・名職・散田・地子等)の付出を命じ,遠敷・大飯両郡は内藤氏,三方郡は熊谷氏がこれを触れる〔神宮寺桜本坊日記〕.
1551 天文20 6 7 朝倉景隆,大徳寺真珠庵・酬恩庵に足羽郡二上村国衙分半済20石を寄進〔(2)真珠庵-90〕.
1551 天文20 7 10 武田元光が死去する〔武田系図,(9)羽賀寺-27〕.
1551 天文20 7 25 三国湊に南山を船頭とする乗組員120人の唐船が着き,小谷六郎右衛門宅を宿所とする〔朝倉始末記〕.
1551 天文20 8 8 武田信豊,永井国基跡の文所役を左京進に与え,惣国の段銭配符は1人で行うことを認める〔(9)長井健一-3〕.
1551 天文20 9
丹後国加佐郡代官の殺害を発端として所領を失った加佐郡衆が,郡内所々に城郭を構えて武田氏と戦う〔(9)羽賀寺-27〕.
1551 天文20 10 19 遠敷郡明通寺より命令された陣夫役を怠り,財産を没収された門前百姓が詫言により許される〔(9)明通寺-133〕.
1551 天文20 11 7 武田氏,11か条の国中徳政の定を公布〔(8)大音正和-242〕.
1552 天文21 1 28 細川晴元,三好長慶に京都を追われ,武田信豊を頼り若狭に逗留〔言継卿記,(9)羽賀寺-27〕.
1552 天文21 3 21 粟屋一族の牢人衆粟屋右馬允,遠敷郡に攻め入り武田信方と戦って敗退する〔(9)羽賀寺-27〕.
1552 天文21 7 9 若狭で大洪水あり〔(9)羽賀寺-27〕.
1552 天文21 7
南条郡今泉浦と山内の馬借,河野浦の覚善五郎次郎が禁止されている里買塩を運んだとして朝倉氏に訴える〔(6)西野次郎兵衛-43〕.
1552 天文21 8 3 越前の武田信孝と粟屋右馬允,若狭に侵攻しようとするが,敦賀郡司朝倉教景父子の説得により断念〔(9)羽賀寺-27〕.
1552 天文21

この年興福寺僧尭顕と朝倉氏家臣杉若吉藤,坂井郡河口荘新郷と坪江郷の年貢銭をめぐり相論する(1553年まで)〔(2)春日大社-2〜12〕./武田信豊,丹後国加佐郡攻撃のため大飯郡高浜城まで出陣〔(9)羽賀寺文書27号,神宮寺旧記〕.
1553 天文22 1
武田信豊,昨年の厄運のはれたことを謝し,泰山府君都状を捧げて,長寿と武運を祈る〔(2)若杉家-15〕.
1553 天文22 6 8 丹波内藤氏の要請に応じ,武田氏家臣逸見氏などが丹波桑田郡野々村に出陣し戦う〔(9)大成寺-3〕.
1553 天文22 6
朝倉氏,国中の神社と道橋見分のため使者を派遣〔(6)西野次郎兵衛-47〕.
1553 天文22 6
若狭大旱魃により,国内各所で雨乞祈念あり〔(9)羽賀寺-27〕.
1553 天文22 7
越前・若狭ともに6月より雨が降らず大旱魃となり,大飯郡大成寺内の池が干上がる.また,坂井郡十郷用水の水論が一乗谷朝倉氏のもとで争われる〔(9)大成寺-2,(2)春日大社-10〕.
1553 天文22 7
坂井郡河口荘新郷と坪江郷の年貢銭をめぐる興福寺尭顕と杉若吉藤の相論を朝倉義景が裁決し,杉若に銭の納入を命じる〔(2)春日大社-12〕.
1553 天文22 10 30 遠敷郡明通寺の門前衆,寺家への普請・雪かきなどの奉仕を怠りなく勤めることを誓約〔(9)明通寺-135〕.
1553 天文22

この年若狭に立ち寄った連歌師宗養,長源寺・玉花院・谷田寺・妙興寺の連歌会に臨み,また遠敷関でも発句する〔若狭郡県志〕.
1554 天文23 4 1 白山が噴火する〔白山宮荘厳講中記録〕.
1554 天文23 4 2 越前妙法寺が十刹に列せられる〔鹿苑日録〕.
1554 天文23 4 2 朝倉氏が棟別銭を賦課する〔(4)大連三郎左衛門-2〕.
1554 天文23 4 11 石山本願寺で本願寺派照護寺門下の幸若大夫,「頼若太郎」「高館」「景清」「新曲」「腰越」を舞う〔天文日記〕.
1555 弘治1 7 21 朝倉氏,教景を大将として加賀江沼郡へ侵攻し,一揆勢と戦う〔私心記〕.
1555 弘治1 7 22 敦賀郡江良浦,寺庵・神子(巫女)・祝に課せられた陣夫役の免除を願う〔(8)刀根春次郎-13〕.
1555 弘治1 8 13 朝倉軍,加賀江沼郡菅生口で合戦〔(2)尊経閣文庫-59,寸金雑録-1〕.
1555 弘治1 9 8 朝倉教景が死去する〔朝倉系図〕.・1556弘治23.18敦賀郡気比社神殿が焼失する〔華頂要略〕.
1556 弘治2 3 29 将軍義輝,朝倉義景に本願寺と和睦し加賀より撤兵することを勧める〔(2)松雲公-37〕.
1556 弘治2 4 22 朝倉氏,将軍の和平案を受け入れ,加賀江沼郡敷地より撤兵したことを幕府に報告〔(2)古簡雑纂-8〕.
1556 弘治2 6 22 昨年8月より若狭国内を巡回し始めた遠敷郡明通寺の鐘鋳勧進による募集銭が,計54貫文となる〔(9)明通寺-139〕.
1556 弘治2 7 13 小鼓楽人宮増弥左衛門が,若狭で死去する(74または75歳)〔四座役者目録〕.
1556 弘治2 7 18 三国湊滝谷寺の逃亡門前百姓を,朝倉氏が誅伐することを命令する〔(4)滝谷寺-61〕.
1556 弘治2 10 6 武田信豊が死去する〔武田系図〕.
1557 弘治3 10 11 観世宗節(元忠)一座の越前下向につき,朝倉氏が大野郡石徹白彦五郎より新給地分の出銭を徴収〔(2)石徹白徳郎-2〕.
1557 弘治3 10 21 朝倉義景,足羽郡木田の橘屋に薬と酒の売買を安堵〔(3)橘栄一郎-2〕.
1557 弘治3 11 10 武田信豊,国内真言宗寺院は遠敷郡正昭院を本寺とし,他宗派へ移ることを禁止する掟を定める〔(9)萬徳寺-6〕.
1558 永禄1 5
小浜へ下向した吉田兼右,武田信豊に神道諸秘事を伝授〔兼右卿記〕.
1558 永禄1 (6) 26 丹生郡織田荘本所方の朝倉氏一族が近年散田としていた本庄北の常円分を名立し,名役を負担させる〔(5)山岸長-5〕.
1558 永禄1 7 25 武田信豊,近江勢の支援を得て子の義統への攻撃を意図するも,断念〔(9)羽賀寺-27〕.
1558 永禄1 8 20 武田義統,内裏へ初鮭と後瀬山の椎を進上する〔御湯殿上日記〕.
1558 永禄1 10 30 武田義統方の一族武田信方,三方郡前川・気山で武田信豊方と合戦(11月7日まで)〔(2)尊経閣文庫-37〕.
1559 永禄2 1 6 敦賀郡気比社の新造がなり,神殿の遷座が行われる〔華頂要略〕.
1559 永禄2 3 21 丹生郡織田寺,収納米銭の管理や月ごとの出納にあたる月行事の担当者などについて掟書を定める〔(5)劒神社-41〕.
1559 永禄2 3 23 三国滝谷寺領を堀江四郎兵衛が押領したことにつき,朝倉氏より検分使佐久良景毘が派遣される〔(4)滝谷寺-64〕.
1559 永禄2 4 16 南条郡池大良の名子が新儀に大網を立てたので,朝倉氏が府中奉行人に命じて網を上げさせる〔(2)布施美術館-2〕.
1559 永禄2 6 16 武田信豊・義統父子和談のため,将軍義輝が蔭凉軒を派遣し,周辺大名に協力を命じる〔(2)古簡雑纂-10・11〕.
1559 永禄2

この年冬,宗養が越前敦賀に赴き,一乗谷で越年する〔宗養発句付句〕.
1560 永禄3 6 14 丹波牢人衆が若狭へ発向する〔厳助往年記〕.
1560 永禄3 9
専修寺尭恵が越前に下向し,専修寺真智を擁する勝鬘寺など4か寺の帰参を求めて朝倉義景に訴える〔(2)専修寺-17〕.