今月のアーカイブ
Archive of the Month

福井県文書館では月替わりで収蔵資料や館の活動を
紹介する展示を行っています。これからの
展示予定はこちら

ごめんね。ありがと。展

ごめんね。ありがと。展
左から佐久間象山、牧野伸顕、矢尾鼎三、新島襄、松平康荘

平成29年7月14日(金)~平成29年9月27日(水)

文書館閲覧室
※終了しました。

平成29年9月30日(土)~平成29年11月5日(日)
若狭図書学習センター エントランスホール

※終了しました。

謝罪する時の「ごめんね」、感謝する時の「ありがとう」。
とても身近なこの言葉は、人間関係を築き、時に直し、保ち、時に深める、
生きていく上でも大切な、気持ちを伝える言葉です。
歴史をふり返ってみると、小学生も思想家も、武士も僧侶も、知事も図書館も、
たくさんの、いろいろな形の「ごめんね」「ありがとう」がありました。
展示では、おとなもこどもも、むかしもいまも変わらない、「ごめんね」
「ありがとう」の気持ちが伝わるふくいの資料を紹介します。


●○ ケース1「ごめんね。」 ○●


勝手に馬草を刈り取って…
「謝罪之証(まぐさ刈取)」

1878年(明治11)9月18日「謝罪之証(まぐさ刈取)」
野尻喜平治家文書(当館蔵) I0076-00544
デジタルアーカイブ「謝罪之証(まぐさ刈取)」はこちら


1878年(明治11)9月15日、大野郡下荒井村(現在の勝山市遅羽町)の山中で、
見回りをしていた山看護の者が、馬を連れて馬草を刈り取っている人物を発見しました。
その人物は、山看護の者に気がつくと、馬を置いたままあわてて逃げていきました。
それから3日後の18日、下荒井村に横枕村(現在の大野市横枕)の村人と村役人がやってきました。
村人は先の人物の父で、親子連署の謝罪文をたずさえていました。その謝罪文は、
犯した罪を悔い改め、二度と山に立ち入らないという誓いを立て、馬の返却と訴訟の取り下げを
乞い願う、改心と自重を約束するものでした。謝罪文の後には、横枕村の副戸長と総代が
その内容を請け負う、奥書も添えられていました。山を荒らされた下荒井村は、
すでに訴訟に踏みきっていましたが、謝罪文を出すにあたり、副戸長と総代による
本人への厳しい戒めもあったと聞き、これで内済とし、告訴を取り下げました。



田んぼを勘違いし
「始末書を以奉申上候(松田三左衛門取持の三ツ鍬四艇奪取一件)」

1875年(明治8)10月22日「始末書を以奉申上候(松田三左衛門取持の三ツ鍬四艇奪取一件)」
松田三左衛門家文書(当館蔵) A0169-02210
デジタルアーカイブ「
始末書を以奉申上候(松田三左衛門取持の三ツ鍬四艇奪取一件)」こちら

1875年(明治8)10月16日、丹生郡南菅生浦(現在の福井市南菅生町)のとある田んぼで、
誰かが勝手に稲を刈り取っていくという事件が起きました。この田んぼでは、半年前、
4月1日にも、田を耕していると隣の田んぼの主がやってきて「ここは私の田んぼだ。」
と言い、
を奪い取っていくという事件が起きていました。相次ぐ事件を受けて田んぼの主が
被害届を出したのでしょうか、
邏卒(現在の巡査)が捜査にやってきました。邏卒が双方に
事情を確認したところ、田んぼの主は被害届を出した田主で間違いありません。隣の田主は、
田んぼ同士が地続きになっていたためにそこも自分の田んぼだと勘違いをし、勝手な鍬入れを
やめさせるために鍬を奪い取り、作付けした稲を収穫するために穂を刈り取っていたのです。
勘違いをしていた隣の田主は、邏卒の捜査で初めて事実を知ったといい、自らの非を認め、
権令(現在の知事)にこの始末書を提出しました(展示資料は村控)。



京都に攻め込んで…
「毛利大膳父子并末藩吉川監物より謝罪状写」

1864年(元治元)「毛利大膳父子并末藩吉川監物より謝罪状写」

松平文庫(福井県立図書館保管) A0143-21006(1006(仮215))


禁門の変から4日後の1864年(元治元)7月23日、朝廷から幕府に長州征討の勅(命令)が
下されました。幕府は征討軍を編成し(総督は前々尾張藩主徳川慶勝、副総督は福井藩主
松平茂昭)、11月18日の総攻撃に向けて着々と準備を進めていきました。そのころ長州藩は
禁門の変から間もない8月5日にも四国艦隊下関砲撃事件で打撃を受けていたため、
藩論(藩内の意見)は正義(改革)から俗論(保守)へと大きく傾いていました。対する征討軍の
総督慶勝も、総攻撃の準備を進めながら、同時に話し合いによる解決を模索していたため、
長州藩は西郷隆盛らによる説得に応じて降伏し、禁門の変を指揮した三家老を切腹させて
その首を差し出しました。その後、長州藩は藩主毛利敬親・定広父子が罪科を自認する
「謝罪状」の提出や山口城の破却、三条実美ら五卿の移送も受諾したため、12月27日、
征討軍は撤退していきました(第一次長州征討)。こうして、長州藩と征討軍との戦闘は、
ひとまず回避されたのです
(展示資料は敬親・定広の「謝罪状」の写しです。この「謝罪状」は、
副総督を務めた福井藩を経て幕府に提出されたようです。徳山・長府・清末の3支藩主も本藩主
父子の罪科を追認する謝罪状を提出しており、「謝罪状」は全部で6通あります)。



稲を盗んで

「相渡シ申一札之事(稲ぬすみ取ニ付証文)」

1676年(延宝4)9月17日「相渡シ申一札之事(稲ぬすみ取ニ付証文)」
小島家文書(福井大学附属図書館蔵)


1676年(延宝4)9月15日夜、坂井郡野中村(現在の坂井市三国町)で捕物騒ぎがありました。
源助と善九郎の田んぼで稲を盗もうとしている二人の男。それを村人が見つけ、その場で
取り押さえたのです。二人の男、それはなんと、同じ村の仁蔵と善吉でした。2年前の74年、
この年は凶作で、二人は年貢を完納できず、未納分を75年に持ち越していました。そして75年、
この年も凶作で、二人は74年の未納分と75年の年貢を納めるために土地を抵当に入れて
借金をし、また別の借金を返済するために奉公の給金の前借をし、何とか立ち行かなくなるのを
防いでいたのです。(これは、越前・若狭両国はもとより、全国に多数の死者をもたらす大飢饉でした
(延宝3年の飢饉、8年にも発生))その大飢饉の翌年の出来事でした。しかし、非常時とはいえ、
盗みを働いた二人を見逃す訳にはいきません。犯人の仁蔵と善吉には「追放」という処分が
下されました。「追放」は直接的な刑罰ではありませんが、村から切り離されて社会的な保障を
失うため、生活に困窮しても、事件の被害者になっても、すべて自力で解決するしかないという
厳しい刑罰です。そのような「追放」の処分を下された二人は、この詫び状を出し、年の暮れまで
は何とか村に置いておいてほしいと村中に嘆願しています。当時、奉行所・公事場といった
警察・裁判の機構がなかったわけではありません。しかし、奉行個人の裁量に左右されることも
多く、この「追放」という刑罰は、結果として生命の危機に陥る可能性を高めるものとなりました。
二人にとっては、命にかかわる問題だったのです。




お酒を呑みすぎて…

「口上之覚(従弟不心得ニ付遠慮願)」

(年未詳)9月16日「口上之覚(従弟不心得ニ付遠慮願)」
土屋豊孝家文書(当館寄託) C0044-01084

「大酒之上不心得之趣」とは、いったい何をしでかしたのでしょうか。本人は「御暇」を
下され、従弟も「遠慮」(謹慎)を願い出ています。とくに武士の場合、処罰が下されると、
近親者や主人が「遠慮」を願い出るという慣習があったため、その影響は第三者にも及びました。



せっかく来てくれたのに…

「(来訪の際の不在を詫び、夕食への招待状)」

(年未詳)6月21日「(来訪の際の不在を詫び、夕食への招待状)」
池内啓収集(杉田家旧蔵)文書(当館蔵)A0174-00121

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「さきほどは、せっかく来てくださったのに、同志社に行っていてお会いできず、残念です。
今日は、午後も用事がありますので、6時ごろまでは帰宅できそうにありません。
ただ、6時以降でしたら、予定は空いておりますので、ご都合がよろしければ、
いらしてください。粗末ですが食事を用意しておきますので、召し上がっていってください。
その時にゆっくりお話ししましょう。」(展示資料の現代語訳)訪問時には不在だった
新島襄からの夕食への招待状です。




言うことをきかなくて…

「(絵日記)」

(年未詳)12月28日~1月4日「(絵日記)」
藤野厳九郎家文書(当館寄託) C0125-00085


藤野家の二男竜弥の冬休みの絵日記です。1月4日、この日、竜弥は「ニイサン」
(恒弥)と相撲をとって遊んでいました。「オカアサン」(文)が「ヤメナサイ」と
声をかけますが、耳に入りません。そのまま取組を重ねていると、とうとう
「オトウサン」(厳九郎)に怒られてしまいました。



●○ ケース2「ありがと。」 ○●


罹災者への救助金を…

「(罹災救助金ニ付謝状」

1891年(明治24)11月5日「(罹災救助金ニ付謝状)」
松平文庫(福井県立図書館保管)A0143-00601

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1891年(明治24)10月28日の朝、6時37分過ぎ、濃尾平野を震源とする地震が
発生しました。マグニチュードは8.0で、内陸型地震としては記録史上、最大規模
の激震です(濃尾地震)。この地震は福井県にも死傷者100名以上、全半壊
5000戸以上という被害をもたらしました。明治維新から約20年がたった当時、
松平家は旧主という立場でしたが、復興への一助にと、被災者へ「救助金」を
送っています。また、この時、松平家からは家令の武田正規が大野へ慰問に
訪れています(同月9日「(震災慰問の件謝状)」(大野郡長黒川晋→侯爵
松平康荘家令武田正規)A0143-00623、当主の
康荘は英国への長期留学中で
不在)。「救助金」に「慰問」と被災者に気持ちをよせる松平家の姿からは、
侯爵家としての責任感もうかがえます。




白綿をお施しくださり…

「(本願寺教如書状、従講中白綿一貫二百目請取候、有難覚候)」

(年未詳)12月2日「(本願寺教如書状、従講中白綿一貫二百目請取候、有難覚候)」
矢尾真雄家文書(当館蔵) C0065-00722
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(本願寺教如書状、従講中白綿一貫二百目請取候、有難覚候)」はこちら

本願寺12世教如からヤスタ(現在の坂井市丸岡町)・松本(未詳)・コンカウ寺
(坂井市春江町)廿二日講へのお礼状です。教如は施物(白綿約4.5㎏)のお礼を
述べた後、財施に報いる法施として、称名念仏の大切さを説いています。
このような法施も、僧の修行の一つです。もともと講は「報恩講」などというように
法会の一種でした。それから次第に集まりそのものを指すようになり、そこから
頼母子講」など宗教以外の集まりへとひろがっていきました。この「廿二日講」の
場合、安田・松本・金剛寺の3村が、22日に集まるという講で、13世宣如の時には、
3村から6村へと拡大しています。




図書をご寄贈くださり…
「(図書寄贈お礼、ハガキ)」

1959年(昭和34)11月6日「(図書寄贈お礼、ハガキ)」
山内秋郎家文書(当館蔵) X0142-00738
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福井県立図書館から図書寄贈者へのお礼状です。この寄贈図書は、
越前二の宮劔神社(丹生郡越前町)の社家上坂家の当主津右衛門(1867~1946)の
伝記で、現在も郷土資料コーナーに架蔵されています
(ちなみに表面の図書館印は、今も現役で活躍しています)。




素麺一折ご恵贈くださり…

「(素麺恵贈ニ付礼状)(軸装)」


(年未詳)「(素麺恵贈ニ付礼状)(軸装)」
宮崎長円家文書(当館蔵) A0180-00020-001
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佐久間象山 → 常田先生(活文禅師、象山の師)




若芽沢山ご寄贈くださり…
「(名産若芽寄贈、好物ニ而毎日相嗜み申候、書簡)」

1910年(明治43613日「(名産若芽寄贈、好物ニ而毎日相嗜み申候、書簡)」
矢尾真雄家文書(当館蔵) C0065-00348
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杉田定一 → 矢尾鼎三



ハム一股ご恵贈くださり…
「(ハム1股受領ニ付礼状)」


(年未詳)319日「(ハム1股受領ニ付礼状)」

加藤竹雄家文書(当館蔵) A0052-01399

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岡田啓介 → 加藤竹雄(福井農林学校長)



やっぱりお母さんはい…
「休暇日記」

1928年(昭和381日~831日・1929年(昭和4)8月1日~8月22日
「休暇日記」藤野厳九郎家文書(当館寄託) C0125-00084


藤野家長男恒弥の夏休みの日記です。1928年(昭和3)、小学校4年生の恒弥は、
この年の8月、家族と離れて敦賀の保養所で過ごしていました。保養所にきて
2週間ほどたった13日、家を恋しく思っていたところに「お母さん」から小包が届きました。
小包の中身は「浮輪」と「水中目鏡」でした。これを見た恒弥は「やっぱりおかあさんは
いい。」お母さんは、恒弥の欲しいものがわかっていたようです(この2日前、11日には
「お父さん」が保養所を訪ねています。その日、お父さんは本(「赤い鳥」「子供の科学」
「ファーブルの科学物語」「聖フランシス物語」)と着がえの浴衣を持っていっていました。
「浮輪」と「水中目鏡」は、「お父さん」が忘れていったのでしょうか、それとも、
「お母さん」がこっそり送ってあげたのでしょうか)。



●○ 出張展示「ありがと。」 ○●


我は疱瘡(ほうそう)神、世話になった…
「疱瘡守略縁起」

(年未詳)「疱瘡守略縁起」
 組屋家文書(小浜市教育委員会蔵)
(小浜市立図書館(組屋旧蔵)文書 0086-00159(福井県文書館複製本蔵))


疱瘡(天然痘)は、日本でも古くは古代、奈良時代に流行したという記録が残されています
(「
続日本紀(しょくにほんぎ)」)。そのまま時代は下って近世、幕末に種痘が伝来するまで、
1000年以上もの間、効果的な対処法はなく、この間、疱瘡の回避・治癒といえば、
縁起物や
呪(まじな)い、民間伝承薬といった民間療法でした。
ここ小浜でも、豪商組屋六郎左衛門が疱瘡神直伝の「
守札(まもりふだ)」を発行し、
疱瘡除けの縁起物として販売していました。

この「疱瘡守略縁起」には、組屋家に伝わる組屋家と疱瘡神との逸話が記されています。
永禄年間(1558~1570)、航海中に遭難しそうになった当時の当主六郎左衛門は、
どこからか現れた一人の老人の助けで危機を脱しました。帰港後、六郎左衛門が老人を
自宅に招いてもてなすと、老人は「我ハ疱瘡を司る神」といい、以後、疱瘡から一族を守護する
と約束し、そして六郎左衛門に守札のつくり方を伝授して去っていった……という話です。
こうして「疱瘡神直伝」の守札ができあがりました。




江戸の大奥様にも一枚…
「(谷口市丞書状)」

(年未詳)221日「(谷口市丞書状)」 組屋家文書(小浜市教育委員会蔵)
(小浜市立図書館(組屋旧蔵)文書O0086-000582(福井県文書館複製本蔵))


 とある年の2月、組屋家は小浜藩から下命を拝し、この守札10枚を献上しています。
これは、組屋家の守札の評判が、江戸にいた藩主酒井忠隆の耳に入り、
江戸藩邸(牛込矢来)の「大奥様御用」(大奥様は先代の

酒井忠直の正室)として直々に所望されたものでした。



歳暮ご恵贈くださり…
「(歳暮披露ニ付礼状)」

(年未詳)223 「(歳暮披露ニ付礼状)」
岩崎左近家文書(福井県文書館蔵)Q0064-50004-034
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松平上総介(備前国岡山藩主池田斉政)から
酒井若狭守(若狭国小浜藩主、代数は未詳)へ、お歳暮ありがとう。




突然の訪問にもかかわらず…
「(魯迅選集を読んで突然訪問したことへの礼状)」

1935年(昭和10101日(年は推定)「(魯迅選集を読んで突然訪問したことへの礼状)」

藤野厳九郎家文書(福井県文書館寄託)C0125-00041

福井中学校教諭(現在の藤島高校)菅好春(かんよしはる)(恒弥の国語・漢文を指導)から
藤野厳九郎への手紙です。好春の訪問は突然だったようですが、厳九郎は歓迎し、
帰り際には土産も持たせています。進学した恒弥も顔をみせ、好春にとっても藤野家にとっても、楽しい夜になったようです。(恒弥の福井中学校在学中、この好春が『魯迅選集』
(佐藤春夫・増田渉訳、岩波書店、1935年)の中の1本、「藤野先生」を読み、恒弥に
「これはお父さんのことではないか」と尋ねたことで、厳九郎は教え子だった周樹人が
魯迅であると知ったのです。)




●○ 出張展示「ごめんね。」 ○●

過言を放ってしまって…
「詫言証文之事(明和期おこつる浜流木世久見浦との争論ニ付)」

1790年(寛政2127 「詫言証文之事(明和期おこつる浜流木世久見浦との争論ニ付)」
桜井市兵衛家文書(福井県文書館蔵)N0055-00502
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1765年(明和2)10月のとある日、三方郡
食見(しきみ)浦(同郡世久見(せくみ)浦の枝浦、
現在の若狭町世久見)の村人が集まって話し合いをしていたところ、熱くなってしまったの
でしょうか、ある村人が過言(暴言)を放ってしまいました。それからというもの、その村人は
村内で孤立してしまい、村役人を頼ってお詫びをしても、村人には聞き届けてもらえません。
そのまま時は流れて1790年(寛政2)12月、再度、村内にある立徳寺と庄屋を頼って
お詫びをすると……今度は村人にも聞き届けてもらえました。
こうして許しが得られたのは、過言から25年目のことでした。

ところで、この村人が過言を放ってしまった集まりで、食見浦の村人は、ある事件への対応を
話し合っていました。1765年(明和2)10月2日、世久見湾の「
おこつる(岡鶴のことか)浜」に
1枚の大きな材木が流れ着きました(おおよそ長さ6m・幅50cm・厚さ45cm)。
食見浦の村人がそれを見つけ、流されないように引き上げておいたのですが……翌日、
世久見浦から2
艘(そう)の船がやってきたかと思うと、すぐさま、断りもなく、その材木を持って
いこうとするのです。ちょうど「
かまたき(釜炊)」(製塩)をしていた食見浦の村人が
これに気づき、理由をただしますが、世久見浦の村人は「村年寄に

聞け」「庄屋に聞け」というばかりで、そのまま材木を持っていってしまいました。
これを受けて、食見浦の村人は、集まって今後の対応を話し合います。
過言が放たれて混乱する一幕もありましたが、組頭に判断を仰ぐという結論で一致しました。
その組頭は……「石高が定められている以上、たとえ1本の藁であろうとも、漂着物は、
その村のものにしてはならない」という論理で、問題になっている材木も食見浦のものではない
といいます。その口調があまりにも厳しいので、村人は、浦に課される役義を例に挙げて
食い下がり、改めて、材木の扱いを問いただします。
すると、組頭は「朽ち腐らせるのだ」といい……さらに「それほどまでに材木、
材木というのなら、当事者同士で決着をつけるがよかろう」と村をまとめるという役目を
放り出してしまいました。これに村人が、「そういういい方をされるのでしたら、もう庄屋様、
あるいは御役所様のところへ願い出るしかありません」というと「したければするがよい。
いうことは同じだろう」……これではもう話し合うことはできません。
ここから先は、史料が残っていません。この後、両浦の村人は、そして材木は、
どのような結末を迎えたのでしょうか。




短気が直らなくて…

「修養宿題」

1912年(明治45)度 「修養宿題」 松田三左衛門家文書(福井県文書館蔵)A0169-02540
デジタルアーカイブ「修養宿題」
こちら

福井中学校2年生(現在の藤島高校、当時の中学校の修業年限は5年(入学年齢は現在と同じ))
松田幸農の1912年(明治45)の夏休みの宿題です。科目は修身(道徳)で、幸農は「短気」をテーマに
作文を書いています。かねがね、祖父から「短気ハ身ノ損」と言われていた幸農は、夏休み前の
最後の修身の授業中、夏休みの間に短気を克服しよう と決意しました。




 ●○ パネル展示 ○●

パネル展示



●○ 室内の様子 ○●

入口


きもちをかたちに-ごめんね。ありがと。の手紙をかこう!


郷土新聞優秀作品展示



ガイドペーパーpdf:1.77MB

ポスターpdf:2.98MB

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