今月のアーカイブ

発掘!明治を拓いた意外な福井藩士たち

 みなさんは幕末から明治にかけて活躍した福井藩士といえば誰を思い浮かべますか。橋本左内?由利公正?いえいえ、活躍した福井藩出身者はまだまだ大勢います。
 彼らは教育者・官僚・政治家・学者・商売人・技術者・医者・弁護士などといった多様な分野で業績を残し、明治を切り拓く原動力となりました。
 今回の展示ではそんな“知られざる福井藩士”の活躍を福井藩の人事関係資料を中心に紹介します。

福井藩の人事関係資料

 「士族」、「剥札」、「士族略履歴」、「子弟輩」、「元陪臣」など、いずれも松平文庫(福井県立図書館保管)。
 士分以上の藩士については、文書館資料叢書「福井藩士履歴1~6」として刊行済(続刊の予定) 。

植物病理学研究の先駆者 白井 光太郎(しらい みつたろう)

白井光太郎(1863-1932) (東京大学植物病理学研究室提供)
白井光太郎(1863-1932) (東京大学植物病理学研究室提供)

 白井光太郎は、明治から昭和にかけて日本における菌学を樹立し、本草学史研究の道を拓いた植物学者です。 松平慶永の近習だった白井久人の子として江戸霊岸島に生まれました。一説には名付け親は慶永だったともいわれます。維新後に一家で帰福するもすぐに上京し、再び慶永の側近として仕えています。慶永は自ら英語を教えたり、習字の手本を書きあたえるなど幼い光太郎に目をかけていたようです。
 1886年(明治19)帝国大学理科大学植物学科卒業、同年に東京農林学校助教授(翌年教授)、99年(明治32)から2年間ドイツに留学し、1907年(明治40)から25年(大正14)にかけて東京帝国大学農科大学教授を務めています。この間、植物学や植物病理学の講座を担当し、農作物の病菌の調査を精力的に行いました。

模範となった白井の著作集

 『最近植物病理学』
1903(明治36) 『最近植物病理学』 福井県立坂井高等学校蔵
『中等植物学教科書』
1903(明治36) 『中等植物学教科書』 福井県立坂井高等学校蔵
『救荒植物』
1903(明治36) 『救荒植物』 福井県立坂井高等学校蔵

 白井光太郎の著作の数々です。彼が松平試農場の評議員を務めていた縁から同所に寄贈され、現在の坂井高等学校に受け継がれています。
 『中等植物学教科書』は一般書として、『最近植物病理学』は専門書として高い評価を受け、その後の植物学教育の模範となりました。『救荒植物』は、飢えをしのげる山野自生の植物の収録を目的としたもので、1716年(享保1)刊行の同名の和書を翻案、再編したものです。
 このような本草学を中心とした古典の調査及び収集も彼のライフワークとなり、その成果は『日本博物学年表』にまとめられ多くの研究者の指針となりました。

むかし武術家 いま酪農家 団野 確爾(だんの かくじ)

団野確爾(1847-没年未詳) (福井市立郷土歴史博物館提供)
団野確爾(1847-没年未詳) (福井市立郷土歴史博物館提供)

 代々福井藩の柔術師範を務める団野家に養子入りした確爾ははじめ番士として藩に雇われ、ついで隊士として諸隊に配属され、天狗党の乱や会津戦争にも従軍しました。 その後、1869年(明治2)12月に「柔術世話役頭取」となりますが、翌70年2月に「土着開墾」と「一万五千坪」の譲渡を願い出て許可され、帰農します。ただ、この時は完全に帰農しておらず、部隊に所属し、また由利公正の随員として東京に出張するなど、続けて藩士の職務にも従事しました。
 そんな半農半士の確爾が酪農家に。転機は同年閏10月の東京への出張でした。もとはといえば公正の随員でしたが、確爾は築地の牛馬会社や横浜在住の英国人から搾乳・製乳を学び、洋牛を購入して戻ってきたのです。こうして、福井の地で、乳牛の飼育と牛乳の販売がはじまりました。
 当時は牛乳が浸透していなかったため、事業は失敗に終わりますが、確爾は事業の再興を図り、それが交同社(福井藩の士族が設立した活版印刷・牛乳販売の会社)の基礎となりました。

近代の牛乳瓶(参考資料)

近代の牛乳瓶(参考資料)
福井城跡出土 福井県埋蔵文化財調査センター花野谷分室蔵

 県埋蔵文化財調査センターによる福井城跡の発掘調査で出土した牛乳瓶です。

牛乳搾取商 団野確爾

『福井県下商工便覧』
1887年(明治20)『福井県下商工便覧』(福井県立歴史博物館蔵)
展示資料は複製(個人蔵)

 福井県内の商工業者を集めた『福井県下商工便覧』にも、団野確爾の牛乳搾取所と販売所がしっかり載っています。

洋牛売券証

「洋牛売券証」
1889年(明治22)6月5日「洋牛売券証」
岡文雄家文書(福井県立歴史博物館蔵) G0005-02770-066

 確爾が岡研磨という人物に妊娠初期の母牛を売却しています。1頭で代金は230円(当時の東京・大阪間の鉄道運賃が3円56銭)。ひとまず150円を受けとり、分娩後に残金の80円を受けとるという約束です。分娩予定日は8か月後の翌90年(明治23)2月4日、一日でも過ぎれば残金はなし、という条件つきでの約束です。
 研磨は鯖江藩の御才覚方岡家(今立郡市村、現在の池田町市)に生まれ、1877年(明治10)には神戸まで乳牛の買いつけに行き、89年(明治22)には県に養蚕伝習所の設立を働きかけて自身も私立の伝習所を設立、91年(明治24)には県に働きかけて横浜港から洋牛を輸入するなど、牧畜と養蚕に尽力した人物です(当時は上池田町長)。

由利・中根と並ぶ明治新政府参与 毛受 洪(めんじゅ ひろし)

毛 受洪(1825-1900) (『福井の百年』1962年より転載)
毛受洪(1825-1900) (『福井の百年』 1962年 より転載)

 毛受洪は福井藩士毛受福高の長男として生まれました。通称は鹿之介・将監です。 洪は松平慶永から高く評価され、1855年(安政2)に藩校明道館教授、次いで外塾師取扱、他国学問修行取扱などを歴任しました。そして、慶永の命を受け、京都における他藩との折衝や情報収集を担当しました。 1867年(慶応3)には中根雪江や由利公正らと共に新政府の参与に就任しました。
 洪はその後福井藩権大参事や集議院幹事、竟成社(貸金業)社長などを務め、晩年は福井藩や主家である越前松平氏の歴史編さんを行いました。

運動に参加する余裕はねぇ!

 「(強いて国会開設願望を切願スル暇ナシ、毛受洪水他書状等写)」
1880年(明治13)4月 「(強いて国会開設願望を切願スル暇ナシ、毛受洪水他書状等写)」
矢尾真雄家文書(当館蔵) C0065-00165
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 資料は毛受洪ら4名の旧福井藩士達から杉田仙十郎(杉田定一の父)に宛てられた書状を写したものです。1880年(明治13)、国会期成同盟が結成され、国会開設請願運動が盛んになりました。
 当時、福井でも仙十郎や定一らを中心に国会開設請願運動が展開されていました。そのため、仙十郎は毛受達にも運動への参加を求めていたようです。
 この書状において、毛受達は仙十郎に対して運動への参加を拒否しています。その理由として、士族は平民などと違い、自分で起業して生計を立てることが第一であることを挙げています。そのため、運動に参加する余裕はないとしています。

海援隊出身の能吏 関 義臣(せき よしおみ)

関義臣(1840-1918)  (『明治肖像録』国立国会図書館 デジタルコレクションより転載)
関義臣(1840-1918)  (『明治肖像録』 国立国会図書館デジタルコレクションより転載)

 関義臣(旧名山本竜次郎)は、府中本多家の家臣、山本五左衛門の次男です。
 1855年(安政2)、藩校明道館へ入学。藩の顧問格として来福した横井小楠の教えを受けました。61年(文久1)故郷を離れ他国へ巡学し、各地の有識者と交流しました。
 62年(文久2)年、昌平坂学問所に入学、翌年藩命により国事探索方に任命されています。その後、東北蝦夷視察を経て長崎に赴き、坂本龍馬らと海援隊結成に従事しています。後の関の回想によると、龍馬は関の意見書に目を通して「北陸ノ奇男児カト、吾論ト同一ニ出ントハ…」(北陸の奇男児ではないか、わが論と同じである)と喜んだそうです。
 1866年(慶応2)7月、欧州諸国の実情視察のため、長崎から密出国するも台風のため失敗しています。このとき、藩や本多家に迷惑をかけることを恐れ、関竜二と改名しました。維新後、大阪府権判事、さらに営繕局長に抜擢、しかし70年(明治3)武生騒動に連座し、入獄。72年(明治5)鳥取県権参事を皮切りに官僚としてのキャリアを積み重ね、99年(明治32)には山形県知事に任命され、奥羽鉄道の敷設に尽力しました。
 1907年(明治40)長年の功績により男爵となりました。陪臣出身としては福井県初でした。

探索方 山本龍次郎(関義臣)

「風説書(竜次郎差出ス)」
1864年(元治1)11月~1865年(慶応1)3月「風説書(竜次郎差出ス)」
松平文庫(福井県立図書館保管) A0143-00553
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 松平文庫の「風説書」(6冊)には、1863年(文久3)10月頃から65年(慶応元)3月頃にかけて、藩の探索方などが集めたさまざまな情報が書き留められています。その中に題箋や中扉に「竜次郎差出ス」と記されたものがあり、山本龍次郎(後の関義臣)による探索記録と考えられます。
 紹介している部分は、1864年(元治元)、突然の江戸召喚により軍艦奉行を罷免された勝海舟の元を訪れて、先に幕府に売り渡した福井藩の蒸気船黒龍丸の売渡金をめぐって、勝に余計な疑惑がかからないよう相談した際の報告書です。 その他、起床の時刻から体調、食事の場所や来訪者のもてなし方など細かなことまで記述されており、関の几帳面な一面が伺える資料と言えます。

近代度量衡の標準器械を製作 大野 規周(おおの のりちか)

大野規周(1820-86)  (造幣局提供)
大野規周(1820-86) (造幣局提供)

 大野規周は、江戸神田松枝町の幕府暦局御用時計師の家に生まれた幕末明治期を代表する精密器械技術者です。祖父と父は伊能忠敬の測量器具を作製したことでも有名です。
 1855年(安政2)、松平慶永に招かれ器械や銃の製造と教育に当たりました。測量器具に関して橋本左内から規周に宛てた注文のメモが残されており、規周の器具は藩校明道館でも利用されたようです。その後、62年(文久2)、幕府の命により榎本武揚らと共に測量器械類の製造習得の職方(技術担当)としてオランダに留学、 67年(慶応3)帰国しました。
 維新後、新政府に出仕し造幣寮(のち造幣局)の技師となり、銅細工場で主として天秤などの製作とその指導にあたりました。尺度・分銅・目盛器械・温度計・分度器などの近代度量衡の標準器械を製作し、その技術の高さはお雇い外国人をも驚愕させました。

大野規周から春嶽への献上品

年未詳 「象限儀」「ノギス」福井市春嶽公記念文庫
年未詳 「銀瓶」 福井市春嶽公記念文庫
年未詳 「象限儀」「ノギス」「銀瓶」 福井市春嶽公記念文庫

 大野規周は1855年(安政2)慶永に招かれ福井藩に仕えました。
 規周から慶永に象限儀(土地の高低を測る器具)、ノギス(物差し)、銀瓶、気圧計といった品々が献上されました。
 『景岳全集』には左内から規周への測量器具に関するメモが残されており、藩校明道館でも活用されたようです。

慶永はタイムキーパー?

「春嶽遺稿」
年未詳 「春嶽遺稿」
松平文庫(福井県立図書館保管) A0143-21561

 慶永は規周作製のものも含め、複数の懐中時計やクロノメーターを所持していました。
 「春嶽遺稿」内の「登京日記」では、彼の時計活用の様子がわかります。1863年(文久3)10月13日から18日までの福井から京都の旅程で、時刻を詳細に記しています。
 このような一週間弱程度の旅行記録によく時刻の記載が見られます。

ドイツ医学を指向した天皇の侍医 岩佐 純(いわさ じゅん)

岩佐純(1836-1912)  (『稿本福井市史』1941年より転載)
岩佐純(1836-1912)  (『稿本福井市史』 1941年 より転載)

 秦佐八郎、北里柴三郎、志賀潔…など、明治の日本の医学生の多くは、ドイツに留学し後に近代医学のパイオニアとなりました。このドイツを模範とした近代医学の潮流を築いたのが岩佐純(通称は玄珪)です。
 岩佐は、1836年(天保7)福井藩侍医の子として福井城下三上町(現、福井市宝永)に生まれました。はじめ藩の医学校に学び、その後、慶永が江戸から招いていた坪井信良から西洋医学を学んでいます。
 その後、江戸にて坪井芳州、下総佐倉にて佐藤尚中、長崎に遊学し蘭医ポンぺ、ボードウィンのもとで学んでいます。1867年(慶応3)には慶永に従って在洛中に孝明天皇を診療しています。
 1869年(明治2)西洋医学普及のため医学校設立の建言を行い、取り入れられて医学校取調御用懸りとなりました。その時に相良知安とともにドイツ医学の採用を強く主張しました。その結果、ドイツから多くの医師が顧問として招かれ、また多くの日本の医学生がドイツで学ぶこととなります。
 岩佐は、大学少丞・大学大丞・文部大丞・文部中教授などを歴任し、1872年(明治5)以後、明治天皇の侍医も務めました。

ドイツ医学への指向

1873年(明治6)「急性病類集」 福井県立歴史博物館蔵
1873年(明治6)「急性病類集」 福井県立歴史博物館蔵

 岩佐が1873年(明治6)に刊行した医学書です。
 序文では「疾病ヲ概論シテ之ヲ大別スレハ只急慢ノ二性ニ過サル…」と述べ、急性の諸病(緊急性の高い病気)への対応を訴えています。 ドイツ医学の権威であったニーマイルの内科書を抄訳し、同時にその他ドイツ医学の碩学ともいうべき人々の新説も掲載しています。

武生出身の初代福井県会議長 本多 鼎介(ほんだ ていすけ)

本多鼎介(1839-98)  (『福井県議会史』第1巻 1971年より転載)
本多鼎介(1839-98)  (『福井県議会史』 第1巻 1971年 より転載)

 本多鼎介は福井藩家老で府中(武生)領主の本多家の家臣の家に生まれました。府中の藩校立教館で教鞭をとり、後に側用人や町奉行を務めました。 1881年(明治14)最初の福井県会議員選挙で当選し、初代議長となりました。
 鼎介は明治時代の福井県の地理や産物に博学で、しかも文筆に優れていたといいます。そのため、自ら『福井県管内地誌略』『越前地誌略』などの教科書を編さんして、福井県の教育指導にあたりました。
 鼎介の墓には「天資剛毅ニシテ勤勉、識見常ニ俗流ニ卓越セリ、本多家ノ今日アル、実ニ先考ノ余恩ト謂フベシ」と刻まれています。

福井オリジナルの教科書

「越前地誌略(教科書)」
1876年(明治9)10月12日 「越前地誌略(教科書)」
橋本伝右衛門家文書(当館蔵) A0163- 00111
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 資料は本多鼎介が編さんした教科書『越前地誌略』です。石川県の文明堂と開智堂によって1876年(明治9)に出版されました。 当時は教科書検定制度がなく、教科書は各地方で自由に独自なかたちで発行されていました。
 この教科書は下等小学校五級生(8~9歳の子)を対象としたもので、初めて地誌を学習する子ども向けの内容となっています。
 鼎介によれば、この教科書では著名な山・川・村・市などを挙げて平易な文章で説明しているとのことです。ただし、詳細が書かれていないところや分かりにくいところもあり、各校の教師に対して内容を精選して適宜指導するよう求めています。

”羽二重王国”の下地を築いた 山岡 次郎(やまおか じろう)

山岡次郎(1850-1905)  (プリンストン大学蔵)
山岡次郎(1850-1905)  (プリンストン大学蔵)

 福井県の輸出向け羽二重織物のはじまりは、1887年(明治20)に福井織工会社で開かれた講習会といわれています。この講習会を指導したのは、先進地桐生の機業家森山芳平のもとでに製織技術を学んだ技術者です。そして、この桐生産地からの技術移転を仲介したのが、山岡次郎でした。山岡は福井藩から命じられてアメリカに留学。帰国後、東京大学理学部で化学を教え、農商務省発足にともなって、御用掛や技術官を務めました。
 山岡は、製織・染色の指導を通して桐生・足利、伊勢崎、八王子、京都などの産地と深くかかわり、「染織界の一元勲」と呼ばれました。

藩の派遣留学生 山岡次郎

「士族 五」
「士族 五」
松平文庫(福井県立図書館保管) A0143-00488
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 日下部太郎と同行して長崎で英学を学んだ山岡は、藩最初のお雇い外国人ルセーのもとに寄宿、大学南校(東京大学の前身)で数か月学んだ後、1871年(明治4)福井藩から米国へ留学しました。
 プリンストン大学、コロンビア大学など複数の大学で学び、87年(明治20)、東京大学理学部の助教(化学)となりますが、その後、農商務省の技術者(染色)として活躍します。製織・染色の指導を通して桐生・足利、伊勢崎、八王子、京都などの織物産地の中心人物と密接にかかわり、輸出向け羽二重製織技術の福井産地への導入を仲介しました。

桐生の機業家・森山芳平の日記「徴忘録」

「徴忘録」
「徴忘録」
個人蔵・群馬県立歴史博物館提供

 1885年(明治18)11月、福井から村野文次郎がはじめて森山を訪ねた時の日記です。
 森山は自身と同じ進取の気性をもつ実務家・村野の技量をみとめ、意気投合したようすが書きとめられています。

龍馬と由利を知る初代宮城県知事 
 松平 正直(まつだいら まさなお)

松平正直(1844-1915)  (『太陽』第5巻第1号 1899年より転載)
松平正直(1844-1915)  (『太陽』 第5巻第1号 1899年 より転載)

 松平正直は福井藩士松平正泰の子です。1858年(安政5)に家督を相続し、64年(元治1)に大番頭になりました。67年(慶応3)、坂本龍馬が福井を訪れ、三岡八郎(後の由利公正)と面談した際には正直と出淵伝之丞が立ち会いました。
 1869年(明治2)に少参事、70年(明治3)に民部省出仕、73年に内務少丞、77年に内務権大書記官となりました。78年に宮城県権令、同県令を経て、86年(明治19)に同県初代知事に就任しました。
 正直はその後熊本県知事や内務次官、貴族院議員や枢密院顧問官に就任、1900年(明治33)には男爵となり、華族に列せられました。

龍馬最後の28日

「御側向頭取御用日記(15)」
1867年(慶応3)8月~12月「御側向頭取御用日記(15)」
松平文庫(福井県立図書館保管) A0143-00525
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 資料は側向頭取が記した日記です。松平慶永(春嶽)の日常の詳細が記録されており、慶永と様々な人物との交流が分かる貴重な資料です。側向頭取とは手元費用の管理や小姓頭取・小姓などを監督した要職です。
 1867年(慶応3)10月28日、坂本龍馬(才谷梅太郎)と岡本健三郎が山内容堂(豊信)の手紙を届けに福井を訪れています。残念ながら、この時龍馬は慶永に面会できませんでした。
 龍馬は同月30日朝から三岡八郎(由利公正)と会い、夜中まで新政府の経済政策について話し合ったとされています。この時、八郎に松平源太郎(正直)が同行していたことが分かっています。  

学者!技術者!!教育者!!! 市川 兼恭(いちかわ かねのり)

市川兼恭(1818-99) (福井市立郷土歴史博物館提供)
市川兼恭(1818-99) (福井市立郷土歴史博物館提供)

 広島藩の藩医の三男として生まれ、大坂で緒方洪庵に、江戸で杉田成卿(玄白の孫)に学び、幕府の下で天文方和解御用、蕃所調所(洋学研究教育機関)教授手伝、開成所教授、大番格砲兵差図役頭取勤方を、維新後も明治政府の下で京都兵学校教授、大阪兵学寮教授を務め、東京学士会院が創設されれば、その初代会員(全21名)に選出される、そんな指折りの人物、市川兼恭。実は、はじめての出仕先は福井藩でした。
 兼恭は1851年(嘉永3)11月に一代限りで召し抱えられ、蘭学方として翻訳御用などに携わってます。54年9月には扶持を加増されて一代限りも免除されますが、翌10月には幕府の老中首座阿部正弘から天文方の蕃書和解御用を命ぜられ、以後、幕府と明治政府の役職を歴任していくことになります。
 兼恭が幕府に召し抱えられたのは、御用を命ぜられてから約11年後の1865年(元治2)のことでした。それまでは福井藩から扶持が下されており、福井で江戸で、研究に開発に教育に奔走していました。

軍制近代化への一歩

「遠西武器図略」
1853年(嘉永6)刊 市川斎宮 訳解・杉田成卿 参閲「遠西武器図略」
松平文庫(福井県立図書館保管)

 兼恭によるオランダのオーフルストラーテンという人物の著書(1850年刊)の図解編と付図の翻訳書です(翻訳を確認している杉田成卿は兼恭の師で杉田玄白の孫)。
 これで、短銃から大砲、爆薬に刀剣まで、さまざまな洋式武器の名称や形状、構造や動作の仕方もわかります。

「日本近代法の”子”」 栗塚 省吾(くりづか しょうご)

栗塚省吾(1853-1920)  (『新選代議士列伝』国立国会図書館 デジタルコレクションより転載)
栗塚省吾(1853-1920)  (『新選代議士列伝』 国立国会図書館デジタルコレクションより転載)

 福井藩の陪臣(府中(武生、現在の越前市)領主・筆頭家老本多家の江戸詰家臣)の長男として江戸で生まれました。漢学ついで英学さらに仏学を修め、開成学校に入学、続けて大学南校(開成学校の後身)、司法省明法寮で学び、さらに同省法学校(明法寮の後身)正則科第1期生となり、そこで「日本近代法の父」ボアソナードらからフランス法を学びました。そしてパリ大学へ留学、そこで法学士号を取得します。
 フランスから帰国した栗塚は、はじめ母校法学校で速成科(短期養成)第2期生の講義を担当しました。退任後は、司法省で官職や委員を歴任し、この間に民法典(旧民法)の編纂にも従事しています。それから十数年後の1898年(明治31)、栗塚は46歳で大審院(当時の最高裁判所)の部長を最後に官職を離れ、弁護士として独立開業します。
 そして1902年(明治35)には衆議院議員に当選し、それから3期にわたって議員を務めました。
 『天皇の料理番』で秋山篤蔵の兄周太郎の指導者として登場し、篤蔵を華族会館に紹介する「桐塚先生」(桐塚尚吾)。そのモデルがこの人、〝栗〟塚〝省〟吾です。

THESE POUR LA LICENCE

「THESE POUR LA LICENCE」 越前市立図書館(中央図書館)蔵
「THESE POUR LA LICENCE」 越前市立図書館(中央図書館)蔵

 越前市中央図書館栗塚文庫の中に栗塚のパリ大学法学部の卒業論文があります(全8点)。モガミ氏へ。ペリエ夫人へ。フェリックス・レガメ君へ。
 渡しそびれたのか書き直したのか、献辞が書かれたものも。

春嶽・勇姫に仕え、士族となった3人の女性
 歌島(うたしま)・磯岡(いそおか)・山沢(やまさわ)

勇姫(1834-1887) (福井市立郷土歴史博物館 提供)
勇姫(1834-1887) (福井市立郷土歴史博物館 提供)

 福井藩士現役当主の履歴が記録された「士族」には、例外的に3人の女性が登場します。 ともに春嶽の大奥侍女の筆頭「年寄」を務めた歌島(土居延寿、?-1871)、磯岡(北村養寿、生没年不明)、山沢(山沢静寿、?-1885)です。
 その功労を賞して、いずれも1869年(明治2)に養子をとって一家を興し、士族となりました。
 このうち歌島は、春嶽の出生時から田安家に仕え、福井藩主となった翌年(1839年)には、歌島を名乗って「年寄」となっています(「少傅日録抄」松平文庫 福井県立図書館保管)。これに対して磯岡と山沢は中根雪江が「女丈夫といふへき男コ魂の気慨あり」(磯岡)、「淑静堅貞にして婦徳あり」(山沢)と評し、「時事の艱難に際し、事によりてハ諫諍をも申上げたり」と回想していることから、大奥にあって時には面と向かって春嶽をいさめることもあったようです(『奉答紀事』松平文庫 福井県立図書館保管)。とくに勇姫との婚礼の翌年(1850年)には、従来からの木綿・紬の着用が改めて大奥にも申し渡されたこともあって、勇姫附の女中たちの中には「御里方(細川家)へ讒間(告げ口)を入れ、庚戌(嘉永3)御在国の御留守中、しはし御混雑」があったようです(『奉答紀事』)。
 こうした中で1854年(安政1)の大奥人員削減のために、磯岡はいったん隠居・退役し、その後「養寿」と改名して再び出仕しました。

痘苗導入後の種痘事業を支えた目付と医師たち

 1849年(嘉永2)11月に笠原良策(白翁)の尽力で福井にもたらされた痘苗は、その後3か月ほどの短い間に富山・金沢・敦賀・鯖江・大野・大聖寺へと伝わりました。しかし一方で牛痘種痘に対する人びとの抵抗は予想以上に大きく、また医師たちの間での誹謗中傷も消えなかったようです。
 そうした中、福井藩による組織的な種痘事業は、種痘の継続を担当する目付(石原甚十郎)が任命された51年(嘉永4)8月以降に展開したと考えられます。
 履歴資料からは、種痘には佐藤適斎や坪井信良ら江戸に常住した藩医を除くほぼすべての藩医が関わり、この年から毎年末、目付は藩医や担当役人らの働きを評価(褒賞と処罰)していたことがわかります(~66年)。
 目付による種痘奨励は、石原甚十郎から市村市十郎まで5名によって、65年(慶応元)までおよそ14年間にわたって継続されました。
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福井藩の殖産政策と他国交易の中枢「制産方」

 春嶽の隠居謹慎処分後、1858年(安政5)から動き出す「制産方」。領内の商業的産物の開発・流通・売買にかかわり、長崎・下関・横浜には他国交易の拠点「福井屋」「越州屋」などを設置していきました。
 このために領内には産物を掌握する「産物会所」が設けられ、福井城下や三国・府中などの豪商が元締に任命されました(1861年)。
 詳細はこちら

幕末の情報収集担当「探索方」

 福井藩の忍者(忍之者)は、1866年(慶応2)10月に廃止されますが、その前後から、短期間ですがそれまでの忍者の重要な業務であった諜報活動を担ったのが「探索方」でした。府中本多家の家臣・関竜二の探索記録は、「風説書」「長防機密書」などとして松平文庫に残されています。
 また王政復古によって、新政府が成立すると、福井藩出身の参与(中根雪江・毛受洪・由利公正ら)に附属するかたちで探索方が置かれました。その後は戊辰戦争時の戦地での情報収集、脱走者や犯人の捜査にも一時的に「探索」業務が命じられています。
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航海術修行に向かった福井藩士たち

 1853年(嘉永6)黒船来航以降、幕府により海軍力の強化が積極的に図られました。同年9月の大船建造の禁止の解除、55年(安政2)の長崎海軍伝習所の設置、57年(安政4)江戸の講武所内に軍艦操練所の設置、64年(元治元)の神戸海軍操練所の設置など様々な施策が行われました。
 福井藩からも航海術修行を目的として、多くの藩士が江戸や神戸(兵庫表)に藩士たちが派遣されています。「士族」、「剥札」をはじめとする幕末維新期の人事資料には、63年(文久3)神戸海軍操練所の立ち上げ準備中の勝海舟の下で航海術を学ぶことを命じられたことや維新後も海軍関係者となった履歴などが記録されています。
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タペストリー紹介

『福井県下商工便覧』
1887年(明治20)『福井県下商工便覧』 (福井県立歴史博物館蔵)

ガラスケース内展示

福井藩の人事資料
福井藩の人事資料

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福井県文書館 Fukui Prefectual Archives